オンライン授業について

  1.  オンライン授業の内容と現時点での感想

    オンライン授業といっても方法は数多ある。私が履修している講義で多いのは、Google Classroomに事前に掲出されたPDFファイルや投下される教員のコメントを閲覧し、Google Formで数問の問題に解答するというもの。これは、動画コンテンツを使用すると、インターネット環境に厳しい学生への配慮としてなされたものと理解している。Googleが提供するこれらのプラットフォームといえども、数百人が履修する大講義の場合、授業時間にアクセス集中するとサーバーに負荷がかかるということから一定期間(2日~1週間がほとんど)程度閲覧可能になっている。Google Formの問題は数日で解答締切になる印象だが、PDFファイルやClassroomのストリームは過去にさかのぼって閲覧できる。期末のレポートを作成して、不明点があれば遡ることもできるから基本的には教員の質問対応の負担は一般的に軽減されたと考える。

    その一方で、インターネット上のこれらのツールを活用することで、学生と教員のアクセスが容易になったと考えることもできる。授業内容に直接は関連しないがその科目に関する疑問等は、教員に質問しやすくなったともいえる。

    純粋に教員が受ける学生からの質問は、増加したかもしれない。

    このように、学生数が多いとアクセス過多になるリスクを考慮して期間に幅をもたせているが、そもそおオンライン授業においてリアルタイムである必要性はあるのだろうか。コロナ禍の影響で実家からの仕送りが減少した学生、アルバイトを掛け持ちし始めた学生も多く修学を継続する上でアルバイト負担が増えている学生は増加している。本来ならば、対面授業では定められた曜日・時限の講義に出席しその場で講義を受けるのだが、インターネットを媒介する授業がリアルタイムでなければならない必要性はないと思う。前述のとおり、動画が掲載されていれば繰り返し閲覧できるというオンライン授業のメリットから考えれば、むしろリアルタイム配信はそのメリットを弱めるといえよう。そうだとすると、教員が学生に一方的に語り掛けるスタイルの講義においては、リアルタイム配信である必要はなく、一定期間閲覧可能なスタイルを執る方が合理的であると考える。

    もっとも、限定を付したように講義スタイルが異なればリアルタイム配信の方がより高い教育効果が期待される。学生による報告・討論を要求するゼミナールがそれである。私が所属する憲法ゼミナールでは、憲法判例百選に掲載されている最高裁判例を毎回1本学生が報告し、それに関する質問対応・論点を設定して討論するなどしている。複数の学生が同時に接続することが必要であるから、必然的にリアルタイムであることが求められる。報告中は事前に配布されているレジュメをPDFで開けば足りるから、全員カメラオフにし、あたかもラジオのように報告を聞く。報告に関連する質問もチャット機能を用いて行われる。報告者による解答は同様に音声のみで行う。無理解な学生の質問は得てして冗長になりがちなので、チャットに打ち込むことでより生産的な質疑応答が展開されていると思う。

    討論については、動画配信で行われるが、発言者以外はマイクオフにするよう徹底されている。ハウリングや雑音の混入を防止する点、発言者が明瞭になる点からも合理的な措置だろう。

    ゼミに関しては、対面授業と遜色のないーむしろ質疑応答は対面授業より生産的ー教育効果が達成されていると評価している。一方で、インターネットツールに詳しくない操作音痴な教員による講義は苦痛極まりない。以下詳述しよう。

    履修中止してしまったが、倒産法の講義がそれにあたる。毎授業ごとに15分の制限時間内にGoogle Formで小テストが実施される。それも、15分で説明問題が10問というかなり時間制約の厳しいテストである。Google Formで10問作成されているが、その解答欄は毎回一つ。解答も記述式(段落解答)という無能っぷりが発揮されている。1問ごとに設問を区切る機能がある(当たり前)とClassroomで学生が指摘や教示をしても、なお無視してスタイルを貫こうとする教員。

    せめて苦手にしても学生の指摘や教示をもとに「模索する姿勢」くらいは示してほしいと思う。不具合を指摘しても回答が返ってこない、修正されないことも多くうんざりしてしまったので、ついには履修中止をした(せざるを得ない)。進路の都合から、単位も高成績で修得する必要があり、インターネットツールも使いこなせない・学生対応を疎かにする教員の授業は、授業内容の難易に関わらず履修意欲を減少させる。

  2. 今後の授業方法に向けて

    後期も引き続きオンライン授業が継続されることが、極めて高い(大学当局からの公式発表はいまだない)。検査母数が増えているとはいえ、都内の感染者数は連日200人を超えており、都内中心部にキャンパスを有することからすると現状維持した方が大学としてもよいだろう。通学する学生から感染者が出れば、濃厚接触者がかなりの数に及びうること、消毒等の措置のために休講が増えれば学生にとっても不利益が生じる。ただでさえ一円も返還されない学費なのにそれに加え消毒費用の実費がかかれば学費の一律減額や返金も現実的ではなくなる(ただでさえ、学生の通信環境の整備や施設費の返還にやる気のない大学だが・・・)。

    一方で、対面授業を望む声が大きいのも理解できる。友達どおしで問題を検討する有意義さはオンライン授業で失われつつある。教員の肌身に触れた雑談は思いの外示唆に富んでいたり、教員の問題意識からその専門領域の近時の論点が見えたりすることもある。1年生は、特に大学でまともな友達もできないまま今に至る学生が相当数いるともいえる。ゼミ募集も後期本格化することからすると、2年生にどのようにゼミの告知をするか、ゼミ見学をどのようにするか検討しなければと思う。(クラスルームのやりとりをその回限定で2年生にも閲覧を許すというのは、なかなか厳しいものがあるだろう)。

    サークルには所属していないので、どのような勧誘・活動がなされているかよく分からない。1年生のサークルとの付き合い方は、最初のうちは複数入っておいて、友達を作り、肌に合わないものはやめるーというのが王道だと思う。それも今般では現実性がないのだろう。

    SAとして勤務する授業が1年生を対象とする入門講義のため、そこで関わる余地はある。だが、実際にはメールやClassroom上でのやり取りを含め皆無といってよい。(去年はSAやっててもかかわりあったんだけどなあ)。

    いずれにしても、オンライン授業を継続する公算は大きい。教育効果については教員がインターネットツールを使いこなせば十分達成できる。だが、人とのかかわりや学生の人間関係の希薄化などの問題は今後一層現実的な問題として先鋭化するだろう。学生の心理的負担を除去する方策として、双方向講義の充実化が望まれる。

7月12日 雑感

1 司法試験短答過去問

  • 平成30年司法試験短答 憲法 44/50
  • 平成30年司法試験短答 刑法 42/50

時期は空けているものの通年で解いたのはおそらく3回目くらい。いちおうの解答の根拠は抑えているものの、これが初見問題だったら正答率は絶対下がる。

過去問8割→本番7割(ボーダーは6割~6割5分くらい)が理想的な短答突破ラインかもしれない。

 

2 資本制劣後ローン

 

「資本性劣後ローンとは、資本的な性格を持った劣後ローンのことで、借入をしても自己資本と見なされるものを言います。震災対応型資本性劣後ローンは10年間の期限付きで自己資本を増やす効果のある貸付をしてもらえる制度です」(J-Net21 中小企業診断士 遠藤康https://j-net21.smrj.go.jp/qa/financial/Q0801.html

他の特定の債権または一般の債権より支払い順位が劣るローンのことである。会社が倒産した場合などは、その会社の資産の整理が行われる。しかし、残った資産は債権者全員に分配されるわけではなく、債権の種類によって優先順位が決まっている。たとえば、従業員の給与などは優先される債権とされ、その支払を優先させる。(付言すると、債権者平等原則からすると、倒産後の会社の資産は債権者に平等に分配される。しかし、これの例外として、先取特権などがあり、ここでいう従業員の給与は一般先取特権民法306条2号)にあたる。

債権回収の優先順位が低いことから、当然債権回収の期待も減少する。そのため、利率が高くなりがちである。しかし、負債にはならず資本に充当されることから、会社の自己資本比率が向上することで資金調達と財務改善を一気に行うことができる。無議決無配当株式との類似性が指摘されるが、定款を変更することなく同趣旨の資金調達を行うことができる。(無配当かというと利子がつくところ経営成績に関わらず配当のようなものを債権者に支払う必要はある。)

 

3 慶應LSの過去問を概観して

まず指摘するべきは、憲民刑の圧倒的な難易度である。予備試験と同等またはそれよりも少し簡易的な事例問題が出題される。他のLSと比較すると超ヘビーである。①答案の型と②典型論点の発見と展開、③事実関係の正確な評価が求められる。一般的な受験生までは①②は比較的できる(自身もそう。)問題は③である。挙げた判断枠組みと具体的に散りばめられた事実関係を何の事情なのか混同させないように評価する。

あと同期が、正当防衛が問われた刑法の論文で、「侵害を予期していたから防衛行為の相当性がない」と驚くベき論証を展開していた。確認的に述べておくと、正当防衛が認められるためには、①急迫不正の侵害が存在すること、②防衛行為に防衛意思が存在すること、③防衛行為は侵害行為に対するものとして相当性を有すること、が求められる。

そもそも侵害を予期していたからといって正当防衛不成立には流れない。侵害予期に加え、これに乗じて積極的に相手方を攻撃する意思がなければ正当防衛は成立する。そして、この侵害予期+積極的加害意思の類型はそもそもかかる行為が緊急行為性にかけるから①「急迫不正の侵害」にあたらないという問題である。この同期は、侵害予期類型を③防衛行為の相当性の要件に絡んだ論点だと思っていたようだ(そもそも同期は、正当防衛の要件が何か理解していなかったようだが)。

予備試験合格を主眼にせず、はなから「LSに行けばいいや」(それも通っている大学の上にあるLSに)という思考は、愚策だと思う。

条文と論点の結節点を意識しない答案は評価されない。自戒を込めて・・・

7月8日 雑感

日頃の問題意識や活動を備忘録とするために開設したのが本ブログの趣旨だったが、開設以来一切貫徹されていなかった。今後は、このような司法試験受験生が得た問題意識や活動を雑感として記録することにしたい。

 

1 コロナ禍と法律問題

(1)特別定額給付金の受給権者は、基本台帳に掲載されている各個人なのか・世帯主なのか

手続的側面からアプローチすれば後者だろうが、世帯全体の給付金額の確定にあたっては前者を考慮していることから議論が分かれそうである・・・。

(2)感染者の行動歴とプライバシー情報

元来、プライバシー情報は私的領域に含まれる情報と考えられている。情報の性質ではなく、情報が展開されている領域に着目している。そのため、公道上での行動は、情報の性質から考えれば私的と評価できるが、領域に着目すると公道であるからプライバシー権の期待は減少する。

GPS訴訟の議論で山本龍彦が警察による情報監視への憲法的対抗として4つの類型を提示している(論究ジュリスト33号所収「AIと社会と法」146頁山本発言)。

引用すると、「①領域プライバシー権による対抗、②情報プライバシー権による対抗、③客観法的要素を権利論に織り込んだハイブリッド的思考による対抗、④純粋客観法思考による対抗」

 

2 情報法

(1)前述の箇所と関連するが、近時曽我部=林=栗田『情報法概説(第2版)』を講読している。

 (別にアフェリエイトしているわけではないので、本屋で手に取って買ってほしいです。アマゾンへのリンクはあくまで、ジャケットを紹介する意味です。 まあそもそも情報法への関心が高い読者は皆無だと思いますし

情報法概説 第2版

情報法概説 第2版

 

 私が最近関心を払っているのは、SNS上での表現行為に対して媒介者責任をどのような法律構成で追及するかという点である。

「忘れられる権利」に基づいた検索事業者への検索結果削除請求の最高裁決定(最決平成29年1月31日)なども詳述されている。

百選にも今般の改訂で追加された事件であるが、①アルゴリズムによる検索結果の表示は検索事業者による「表現」といえるかどうか、② ①が「表現」として評価されることを前提に「忘れられる権利」と表現の自由との利益衡量をどう図るかというのが論点である。

この事件については、百選解説(田代亜紀「ウェブサイトの検索結果の提供とプライバシー」)を参照されたい。百選解説は人によって有用性の差が顕著だが、田代先生の解説は本件決定における論点と判断枠組みへの解説が非常に簡明で試験対策の観点からも整理しやすく有用である。

わかりにくい例としては、石川健治薬事法違憲判決の解説とか長谷部恭男の堀越判決の解説。彼らはアカデミックな解説に終始しているので、(石川)「違憲性阻却事由」とか(長谷部)「海図もコンパスもなければ大海の航行は不可能」という表現を使うので、学修の至らない学部生ごときが読んでも理解はできないです。

石川解説に登場する「違憲性阻却事由」については、おそらく三段階審査論に基づく理解と思われるので、小山剛の「作法」を読んでから再読するとなんとなく理解できよう。

 

「憲法上の権利」の作法 第3版

「憲法上の権利」の作法 第3版

  • 作者:小山 剛
  • 発売日: 2016/08/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 余談だったが、情報法も公法との結節点を意識しながら学修すると、全体像をより把握できると考える。

 

今後もこのような雑感を掲載していくつもりである。頻度は保証しないが、あくまで、自身が表現主体として言論空間へアクセスする機会であり、自身の今後の問題意識や疑問をアウトプットすることを通じて自身の将来像をより明確にしようとするものにとどまる。よって読者諸君にとって有益性ある記事ではないことはあらかじめ断っておきたい。

選択夫婦別氏制度の賛否について―夫婦同氏制合憲判決からのアプローチ―

第1 はじめに

本稿は、夫婦同氏制合憲判決[1]の問題点について考察することを通じて、夫婦同氏強制制度の問題点を明らかにするものである。。単なる政策論としての当否を超えて、憲法上の観点をも踏まえることで、多角的視点から選択夫婦別氏制度[2]の導入について私見を展開することとしたい。

 1現在の婚姻制度概説

婚姻の成立要件について、確認的に述べておくと、①実質的要件と②形式的要件がある。①実質的要件としては、(ⅰ)婚姻意思の合致と(ⅱ)婚姻障害の不存在、②形式的要件としては届出が必要とされる。いっぽうの夫婦同氏(民法750条)は、婚姻の効力として位置づけられている(第2節)。

第2 判例

1事案

氏を定めずに婚姻届けを提出したが、不受理になった者2名を含むXら(原告・控訴人・上告人)は、婚姻の際に「夫又は妻の氏を称する」と定める民法750条の規定は、憲法13条、憲法14条1項、憲法24条1項・2項に違反すると主張し、所要の立法措置を採らない立法不作為を理由に国家賠償請求(国賠法1条1項)を求めた事案である。

2判旨:上告棄却

(1)13条

氏には①名と同様に「個人の呼称としての意義」および②社会の構成要素である「家族の呼称としての意義」があることに着目している。そのうえで、家族が「社会の自然かつ基礎的な集団単位」であるから、氏を一つに定めることに合理性がある点および②家族呼称意義から派生し、「身分関係の変動に伴って改められることが」「性質上予定されている」点を根拠に「人格権の一内容であるとはいえない」とした。そのいっぽうで、「法制度の在り方を検討するに当たって考慮するべき人格的利益」と判示する[3]

(2)14条1項

民法750条の下、96%以上の夫婦が夫の氏を選択することは性差別ではないか問題とされた。判決では、「本件規定は、(中略)夫婦がいずれの氏を称するかを夫婦となろうとする者の間の協議に委ねている」ため「夫婦同氏制それ自体に男女間の形式的な不平等が存在するわけではない。」と示し、平等原則違反の点はないと結論づけた。

(3)24条

「本件規定は,婚姻の効力の一つ」であって、「婚姻をすることについての直接の制約を定めたものではない。」

「婚姻及び家族に関する事項は,関連する法制度においてその具体的内容が定められていくものである」。「憲法24条2項は,具体的な制度の構築を第一次的には国会の合理的な立法裁量に委ねる」が、その範囲は「個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚すべきであるとする要請,指針を示すことによって,その裁量」範囲に限定されている。

第3 私見

1前提

結論を明らかにすると、選択的夫婦別氏制度を導入するべきだと考える。夫婦の氏の問題についての議論は、立法政策の問題として語られることが多いと感じる。しかしこの問題は、あくまで憲法問題であって本来ならば本判決において最高裁が一部違憲[4]とするべきであったというのが私見である。一部違憲とする法律構成をとる以上、夫婦同氏を婚姻の効力としてではなく要件と見直すことが求められる[5]。たしかに、本件規定は夫婦が婚姻することによって夫婦の氏が一つになるとされるが、婚姻後の氏を定めずに婚姻届を提出しても不備ありとして不受理になる。この点から考えれば、婚姻後の氏を夫婦同一のものとする点は書かれざる自明な要件で、夫婦どちらの氏を婚姻後の氏とするかという点は届出に含まれた形式的要件の一つと考えられるのではないか。

2本判決の批評を通じた私見

選択的夫婦別氏制度を賛成するにあたり、本判決の問題点について言及することとしたい。まず、法廷意見は氏と個人の関係性について、「個人特定機能」があるとするが、それは家族を社会の自然かつ基礎的な集団単位としての「家族呼称機能」の延長として着目するにすぎない。このような論理の展開は、「家族」というフィルターを通して「個人」を眺めるものであって、個人の尊重を理念とする憲法13条と整合しないのではないか。加えて、法廷意見は通称使用の広がりを同氏制度の不利益を緩和すると示している。だが、通称名は同氏制度を維持する根拠とはならずむしろ選択的に夫婦が別氏を称したとしても、社会的な不利益がないことを意味することにつながると考える。

また、平等原則に反するとする点も、夫婦の96%以上が夫側の氏を選択する点でジェンダー間の実質的差異を捉えることなく法が規定しているところ、間接差別にあたると考える[6]。さらに、最高裁は婚姻の自由を、国家制度を前提としている点で制度的自由の性格があるから、広範な立法裁量の存在を容認できるとする。このような人権の保障内容を制度の枠内に限定される制度優先思考を、婚姻の(国が国民に役務や利益を供与する性質のみならず、個人間の結合を公認するという)法的性質に着目し、さらに立法裁量は限定されるべき[7]である。

以上の点から本判決は、本来ならば違憲の結論を導くべきであったと考える。

3社会動態の変化

ここで同氏を強制する制度の不利益性について、将来の立法措置のため社会動態の変化から若干の検討を試みることにしよう。

平成29年男女共同参画白書[8]によれば、昭和61年から平成28年の間で女性の生産年齢人口における就業率は57.1%から66.0%に増加した。さらに、女性の年齢階級別の就業率の推移をみると、妊娠・出産時に離職するいわゆるM字カーブが緩やかになっていることがわかる[9]。これらの点から、女性の就業率全体が上昇しながら、妊娠・出産というイベントにおいても就労し続ける女性が増加しているといえる。このような事情から、男女ともに社会進出をする現代において、夫婦どちらか一方が氏を改めることによる不利益を甘受することが求められる。そうだとするならば、法廷意見が若干言及する改氏による「個人特定機能の阻害」や「アイデンティティの喪失」はより一層現実的な問題として先鋭化するといえよう。

婚姻後の氏をどちらの氏にするか、という点にのみカップルに選択の余地を与えている現行法に、そもそも夫婦の氏を同一にするか否かを選択する余地を与えることを考慮するべきだ。以上より、夫婦選択的別氏制度を導入するべきだと考える。

以上

 

※この記事は、自身が履修する親族法・相続法Ⅰの授業の中で科されたレポート課題の成果である。なお、同課題は既に〆切期日を経過し、採点も終了していることから公開するものであって、同レポート課題が自身未発表のレポートである。

 

以下脚注

[1] 最高裁平成27年12月16日大法廷判決(民集69巻8号2586頁)

[2] 厳密には、「家」を呼称するのが「氏」であり、「血統」を呼称するのが「姓」である。この見解からすると、夫婦同(別)「姓」が正しい用語法であって夫婦同(別)「氏」は誤った表現であるように思える(大村敦志『新基本民法7家族編〔有斐閣平成26年〕』73頁)。もっとも現代日本においては「氏」「姓」の実質的な差異がない点や同義語として用いられてる点を考慮し、特に区別して用いられることは稀である。なお、本稿では引用部分を除き夫婦同(別)「氏」と表記することとしたい。

[3] この点から、法廷意見はあくまで人格的利益以上憲法上の権利未満と評価するものである。すなわち、人格権の保護領域から除外する思考を採っているといえよう。

[4] 一部違憲は、法令違憲の一種であって規定の一部が違憲無効であり残りの部分は合憲有効とする判断手法である。一部違憲に対応する判断手法に全部違憲があるが、これは「いくつかの予見可能な状況においてではなく、法規定が合憲に適用される状況が全く存在しない」という場合を語るテスト(Salerno test)である(Salerno testについては青井美帆「憲法判断の対象と範囲について(適用違憲・法令違憲)」成城法学79号(2010年)49~50頁。。

[5] 高橋和之「『夫婦別姓訴訟』-同氏強制合憲判決にみられる最高裁の思考様式」世界2016年3月号144頁

[6] これを「女性が氏を変更するのが『当然』と意識・無意識が、男性だけでなく女性を支配している」として、巻美矢紀「憲法と家族―家族法に関する二つの最高裁大法廷判決を通じて」(論ジュリ18号)91頁は、「家制度の残滓」と批評している。

[7] 同様の見解として、田代亜紀「夫婦同氏制度と『家族』についての憲法学的考察」(早稲田法学93巻3号、2018年)116頁

[8] 男女共同参画白書平成29年度版 本編Ⅰ第1節 「就業率の推移」2020年6月21日閲覧

http://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/h29/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-00-01.html 

[9] 前掲注8 「女性の年齢階級別就業率の変化及び推移」

http://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/h29/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-00-02.html 

「年パス規約に基づけば、本来期間延長・払戻し措置は不要」は本当か?

結論

事情変更の法理が妥当するから、オリエンタルランドは期間延長・払戻し措置をするべき。

 はじめに

2020年6月23日昼頃、国際私法の判例百選と格闘していたところ驚きのニュースが耳に入る。7月1日からディズニーリゾートが営業を再開するという。(詳細については、(株)オリエンタルランド、「東京ディズニーランド®/東京ディズニーシー®再開日および今後のパーク運営方法について 」https://media2.tokyodisneyresort.jp/home/tdr/news/release/reopen.pdf?utm_source=twitter&utm_medium=social&utm_campaign=200623 2020年6月23日、最終閲覧を参照されたい。)

公式発表の上記資料をみると、オリエンタルランドは営業再開以後のパスポートについて1デーパスポートおよび入場時間指定のパスポートを発売することにより、ゲストの混雑緩和を企図していると思われる。なお、「年間パスポートはすべてご入園いただけません」とある。

オリエンタルランドが同日した年パスに関する発表には、以下の二点がある。有効期限が2020年2月29日以降のものである場合①有効期限の延長もしくは払い戻し、②グッズのオンライン購入と抽選によるご入園という措置を予定しているというものだ。

営業再開という吉報に接しつつも、年パス民にとっては不利益的な内容も含まれる公式発表になっただけに、複雑な感情になったのは筆者も同様である。いっぽうで年パス契約の際、契約条項を再読すると「天変地異等の不可抗力その他当社の責めに帰さない事由によりパーク営業に支障が生じた場合、本券の補償はいたしかねます」とある。このような契約条項と、年間パスポートの有効期限延長、払い戻し措置の法的な関係性やオリエンタルランド側の契約上の義務について検討し明らかにすることを本稿の主題としたい。

本論

年パスとコロナ禍

年パスの契約条項についてはおおむね前述したとおりである。まずは、今般のコロナ禍における休園措置の事実関係について若干の整理をしよう。休園期間は2月29日から始まるもので、これは安倍首相の「今後二週間は大規模イベントを自粛するように」という要請にならうかたちで行われたものであった。当初は、三月上旬ごろまでとの見通しで休園されたわけだが、これが延長され現在に至るわけである。あいだ、四月から五月にかけて特措法に基づく緊急事態宣言が発令されたが、それが解除された後も休園を継続している。

第一に確認するべきは、首相の要請に法的拘束力はないという点である。オリエンタルランドは要請に従わずとも営業を継続することは少なくとも法律のレベルでは可能であった。そうだとするならば、首相の要請があっといえども、究極的には休園判断はいち企業の経営判断にすぎないと評価できる。

第二に、緊急事態宣言が発令されたとしても休業要請(指示も同じ)に法的拘束力がない。行政講学上、法的拘束力の有無はその後に予定される不利益措置の有無で判断すると考えられている。特措法には、要請(指示)違反の効果として何ら不利益措置を予定していないのである。本論から若干外れるが、休業指示を「法的拘束力あり」と伝えるメディアがあった。それは、店名等の公表措置を不利益措置と考えてのことだろう。しかし、公表措置は単なる事実周知制度にすぎないから、公表されたとしても直ちに名宛人(公表されたお店のこと)の権利利益を制限するとはいえないと考える[1]

契約法の観点から

契約は守られなければならないの原則

そもそも契約は、複数の者の合意によって当事者間に権利義務を発生させる制度であり、取引の手段であると説明される。そのため、当事者間の合意は当事者を拘束する効果がある。そのため、契約における合意内容である年パスの契約条項は、われわれ年パス民とオリエンタルランドを拘束するというのが原則である。これを、「契約は守られなければならないの原則」という(そのままですね)。

同原則の例外:事情変更の法理

もっとも、同原則には例外がある。それは、契約当事者間の予測に反する事態が生じたときに契約の拘束力から解放する事情変更の法理というものである(事情変更の原則、という学者もいるが名前の違いにすぎないので気にしない[2])。これは、「契約締結後、その基礎となった事情の当事者の予見しえない変更のために、当初の約束に当事者を拘束することが極めて苛酷になった場合に、契約の解除または改定が認められる」とする法理である。

これが認められるための要件を整理すると、①契約成立当時その基礎となっていた事情が変更すること、②事情の変更は当事者の予見したもの、または予見できたものでないこと、③事情変更が当事者の責めに帰することができない事由によって生じたこと、が必要であると考えられている。

コロナ禍における事情変更の法理妥当性

さて、コロナ禍が上記に示した事情変更の法理の要件を満たすかどうか検討しよう。まず、①契約成立当時にコロナウイルスによって4か月もの間休園されるという点は事情の大幅な変更といえる。年パス契約は1年契約だが、4か月とは1年の3分の1を占める極めて長期間の休園と評価できるのがその論拠である。また、②事情変更について当事者は予見していない。私も、オリエンタルランド側も当初は2週間の予定で休園していたからというのがその論拠である。感染症の拡大防止という目的は、契約当事者いずれに起因するものではない、もっぱら外部的要因であることから③当事者に帰責事由はないとひょうかできる。

以上より、事情変更の法理がコロナ禍における年パス契約に妥当するといえる。

事情変更の法理の効果

事情変更の法理が妥当し、当事者が契約の拘束力から解放される場合考えられるのは、①将来に向けた契約の解除(すなわち返金措置)と②契約の追完(すなわち期間の延長)である。上記の評価から契約内容の合意の効力が一部否定される以上、オリエンタルランド側は返金措置と期間の延長を認めるべきというのが契約法上の帰結である。

2021年2月21日追記

東京ディズニーリゾート・年間パスポートは全使用可能日数のうち購入日から休園日までの消費分を控除した全額の返金がなされた。この措置は契約法の帰結として当然のものであるが、同社はその帰結に従ったことを追記する。

さいごに

この記事はあくまで年パス契約と今回のオリエンタルランド側の措置の法的な性質について専門的に分析したにとどまる。

そもそも法律の解釈問題は識者によって見解が異なることが多くある。上記の私の評価や見解も、最高裁で確立した判例によった考えとはいえ必ずその通りになるか、といえばそうではありません。オリエンタルランドのような社会的地位の高い企業は、訴えられるだけで企業イメージを傷つけてしまうので、そのような点を考慮したのだろうと考えられる。

末筆ながら、未曽有のコロナ禍に際してゲストとキャストの安全に配慮しつつパーク営業再開の目途をつけた(株)オリエンタルランドに敬譲の意を表し、筆をおくこととしたい。

 

[1] 公表の趣旨・目的に照らして公表が実際どれほどに制裁的効果を有するかに着目する必要がある。そのため、正確には公表の効果が行政罰と同視し得るほどに名宛人の権利利益を制限すると評価される場合には、公表措置でも処分性有と評価され、法的拘束力を肯定できる。今般の休業指示違反の効果としてなされる公表措置も、行政による「広告」のような位置づけがなされたケースもあることから一刀両断的に法的拘束力を肯定できないというのが筆者の問題意識である。

北村=深澤「事例から行政法を考える」145頁、有斐閣

[2] 潮見佳男『新債権総論Ⅰ』2017年、87頁

違憲審査基準論と三段階審査論

つい先日、芦部信喜憲法』の第七版が出版されたそうだ。高橋和之によって加筆されたもので、どうやら憲法9条をめぐる集団的自衛権や、刑事手続に関連してGPS捜査の適法性などの近時の判例を踏まえた改定となっているようだ。

 

駿河台交差点の三省堂本店や丸の内の丸善などの法律専門書籍まで扱う大規模書店では、遠くからでもわかるほど平積みされている。改定を知ってこぞって買いにくるであろう芦部信者や、新年度に教科書として買うであろう学生に向けてであろうか・・・と邪推してやまない。

 

憲法という学問は、ほかの実定法領域とは根本的に異なる点が、条文の異質さである。条文の構造がパンデクテン方式に羅列されているわけではない。第一章に天皇、第二章に戦争の放棄というのは、脈絡がなく、条文の配置そのものが意味不明である。

人権規定でも、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」(21条1項)と規定されるだけで、一見この条文だけで、制約が正当化されるのか疑問が生じることもある。

 

憲法施行以来、1960年代までの最高裁は「公共の福祉」論という安易な理由で人権制約を正当化してきた。その証左として、「あんまはり師広告事件」(最大判昭和36年2月15日)などの判例である。この事案は、きゅうの適応症の病名を記載したビラを配布した行為が、あんまはり師による広告禁止に反し起訴された被告人が、同法が21条を不当に侵害するものとして争ったものである。

判決では、「もしこれを無制限に許容するときは、患者を吸引しようとするためややもすれば虚偽誇大にながれ、一般大衆を惑わす虞があり、その結果適時適切な医療を受ける機会を失わせるような結果を招来することをおそれたためであって、このような弊害を未然に防止するため一定事項以外の広告を禁止することは、国民の保健衛生上の見地から、公共の福祉を維持するためやむをえない措置として是認されなければならない。」として規制を正当化したのである。

公共の福祉による制約正当化が全盛期であった上記判例は、長年にわたって憲法学界による批判の対象となった。仮に営利的動機に基づく商業広告であったとしても、規制態様が「禁止」というのは重大な不利益措置である点を考慮すると、その規制が正当化されるためにはより厳格に審査するべきである、というのが学界の最大公約数的見解であると理解している。

 

そこで最高裁は舵をきって比較衡量論を持ち出した。比較衡量とは、制約によって得られる利益と失われる利益を天秤にのせ、より利益が大きい選択肢をとるというものである。この時期の重要判例としては、博多駅テレビフィルム事件(最大決昭和40年7月14日)などが挙げられるだろう。

この比較衡量論という論証スタイルは、確かに一面では憲法上の権利に対するあらゆる制限事案を対象として、事件ごとの具体的状況を踏まえた個別的な処理を可能にするという長所がある。いっぽうで、衡量される複数の要素の重みやそれを判定する尺度を示さずに往々とした「総合的考慮」という名前で思考過程が不明確な判断を導くものであった。(同様の指摘が駒村圭吾憲法訴訟の現代的転回」4頁にある)

 

そこで生まれたのが違憲審査基準論と呼ばれるものである。これが、ご存じの芦部がアメリ憲法理論に輸入改造することによって発明した憲法理論である。自由権の動機を<精神的自由権>と<経済的自由権>に二分し、(二重の基準論)①規制目的が「やむにやまれぬ利益の保護」の場合に必要最小限の手段ならば制約が正当化される(厳格な審査基準)。後者は目的が積極的か消極的かにさらに分類し、②経済的自由権の消極目的規制を目的が重要で手段において実質的関連性があるならば正当化(厳格な合理性の基準、あるいは「中間審査基準」という)、③経済的自由権の積極目的規制を目的が正当で手段において合理的関連性があるならば正当化(合理性の基準)とした。この二重の基準論を出発点とする三種の審査基準を「三層の違憲審査基準」ということがある(渋谷秀樹「憲法起案演習」参照)

 

この定式化を芦部が望んでいたかどうかはさておき、大衆化して広がりをみせた違憲審査基準論であるが、これは規範定立の省力化と規格化を推し進めることになり、無味乾燥とした理由付けがみられるようになった。この傾向が司法試験の答案などで、「立法目的とは無関係の珍妙なLRAがひねり出され、(中略)短絡があふれている」(前掲・駒村6頁)そうだ。

 

憲法の中での<比較衡量論>対<違憲審査基準論>の勝敗は上述の通り、明らかに後者・<違憲審査基準論>である。そして、その理論を輸入物ながらも提唱した芦部が、彼の死後20年経とうとする現在においても発言力を有するのはそういった理由からなのである。

 

しかし、駒村に「短絡」と指摘される安易な違憲審査基準論のあてはめを芦部が願っていたかはさておき、そのような不都合性がみてとれたのも一面として事実である。

そして、そのような膠着状態から登場したのが、「三段階審査」というものである。違憲審査基準論が頭打ちになった現在、ドイツの憲法学説・判例理論がついに持ち込まれたのである。

まず、三段階審査論とはいかなる考えであるか略述しておきたい。

三段階審査論は、憲法「人権」を「憲法上の権利」論を前提とし、従来の「人権」論が往々にして超実定的な理念や道徳哲学のように語られていたのを修正し、実定憲法の解釈として人権を語ることを強く意識した主張である。

上にあげた21条の条文は、素直に読めば制約が正当化されるのか疑問であるが、あの条文はあくまで<原則>論を示したにすぎず、<例外>として制約が正当化されうる。すなわち、「憲法上の権利」は<自由対制限>の様相を呈した<原則対例外>の構図になっていることが理解できるだろう。

そして、この論証手段を規律する手法そのものを「三段階審査」といい、具体的には、①保護範囲、②制限、③正当化という論証ステップを意識するのである。

 

違憲審査基準論を提唱した芦部の功績は、憲法学界の歴史の中で非常に大きいことは間違いない。いっぽうで、現代ではその不都合性ゆえに三段階審査論を唱える学者が登場してきているのは確かだ。(小山剛『「憲法上の権利」の作法』)<違憲審査基準論>対<三段階審査論>の戦いを「断層」と評する学者もいる(駒村・前掲)

芦部論に終始することなく、現代の不都合性から彼の憲法論証の方法を今一度見直すべき時期がきたのかもしれない。

プライバシー権

news.livedoor.com

 憲法の人権保障論において、人権享有主体性の議論を抜けると遂に人権各論の分野に突入する。ここでは、13条以下の憲法の諸規定を判例を通してあらゆる角度から考察していくこととなる。

 いわゆる「新しい人権」について、終局的に援用される条文は13条である。個人の人格的自律云々という13条の趣旨からあらゆる憲法上の権利が派生している。

 そして、プライバシー権もこの13条が憲法上の権利たらしめている。

 

 そもそもプライバシー権とは、自己に関する情報をコントロールするという個人の人格的自律という利益を保護するものである。自分の情報が関知しないところで無制限に広がりを見せているようでは、安心した生活ができない。ところで、このプライバシー権によって保護される対象は大別すると二つである。

 まず、「固有情報」と呼ばれる秘匿性の高い情報である。個人の容貌や犯罪歴・病歴といった他人に公開されることを通常望まない情報がこれにあたる。

 もう一つが「単純情報」と呼ばれるものである。氏名や住所といった情報は、たしかに個人を識別する重要な情報であることに違いないが、社会生活を送る上で公開されることが前提となっているという性質をもっているものを指す。

 会社に就職するにせよ、手紙を出すにせよ、住所や氏名という情報を使わずには生活することができない。社会生活の中で多用する情報は、結果として多く人に知られてしまうことは仕方がなく、多くの人が知っている以上秘匿性が高くないということで、「固有情報」と区別して論じられる。

 

 そこで、「単純情報」の公開がプライバシー権の侵害にあたるか争われた事件を一つ最高裁判例から検討してみたい。

 早稲田大学江沢民講演会事件(最判平成15年9月12日)である。

 早稲田大学江沢民の来日に際して同氏の講演会を主催したが、学生の参加にあたっては、学内に据え置かれた名簿を一定期間内に記入したうえで参加証の交付を受けることが必要とされた。この名簿には、学籍番号・氏名・住所・電話番号という4情報の記載が求められた。

 早稲田大学は警視庁・外務省・中国大使館から万全の警備体制をとるよう強く要請を受け、特に警視庁からは警備のために本件名簿の提出を求められた。大学は、警備を警察にゆだねるものとして、本件名簿のほかに教職員・留学生・プレスグループの参加申込書の名簿の写しの提出に応じた。ただし、本件名簿の提出について学生からの事前の同意を得ることはしていなかった。

 そしてこの事件は、講演会中に現行犯逮捕された学生Xが、同意によらない名簿の提出はプライバシー権の侵害であるとして訴えたものである。

 

判旨としては、次のような点が要点であると考える。

自己が欲しない他者にみだりに開示されたくないという利益は、プライバシー権として法的保護の対象になるとしながらも、「本件個人情報は・・・個人識別等を行うための単純な情報であって、その限りにおいて秘匿されるべき必要性が必ずしも高いものではない。」としている。

同意を求めることが困難な事情が認められないことから、結論としては早稲田大学にプライバシーを侵害であるから「不法行為を形成する」としている。そうだとしても、単純情報であるから秘匿の必要性が高くないとした最高裁の判決は注目に値する。

 

 「単純情報」と「固有情報」の区別はそこまで明瞭なものなのであろうか。

 

 最近でも、Tカードの購入履歴などが捜査機関の手に渡っていたという報道がある。

 購入履歴もそれだけでみれば、「単純情報」と評価されるだろう。しかし、住所や氏名などのほかの「単純情報」を大量に集め、過去の膨大な購入履歴をさかのぼって分析してみたらどうだろうか。「単純情報」の切れ端が、あっという間に個人の内面をえぐる「固有情報」に変容しかねない。

 現代の高度に成熟した情報化社会では、さまざまな情報にアクセスすることができるようになった。それは便利をもたらした反面、一度流出した自己の私的情報は、他人からのアクセスにさらされることとなる。このような社会的背景から考察すると、それ自体としては私事性・秘匿性が低いと認められる情報であっても、慎重に判断することが求められるのではなかろうか。